高校生ならば

子どもの目線。

小石川の植物園も、一人でよく行った場所である。いろいろの木や花の名をおぼえるだけでも、つきぬ楽しさがあった。私が母に感謝するのは、そうした一人遊びの楽しさを母から一々干渉されなかったことである。母自身が多忙をきわめていて、干渉するひまがなかったのかもしれない。あるいは、子供を信頼していたのかもしれない。
母は、くだらない人間を相手にするなとか、つまらない者のために頭を使うなとか自分を大事にとか、根本的なところを大づかみにしつけて、自分に誇りを持たせ、自立の心を養ってくれたのだと思う。そして私もまた、母を尊敬し、母を信頼していた。この子は本当に強情だよと母がしかると、うれしくてしょうがなかった。ぶたれたりするとうれしさがこみ上げてきて笑い出してしまう。
母は、よく私の背や膝を、物差しでひっぱたいた。それも、昔の竹の二尺差し約0.八メートルである。

  • 子どもによく触れており抱き方について
  • 子どもが何か次の日弘太くん
  • 大学を出れば

父親に力があれば

母は父の死後は、父親の役目も果そうとしていた。三十歳の若い未亡人が、たくさんの借金と四人の子供を抱えているのである。甘くやさしい母親の面などを出していられないで、すべて父親になり、ひたすら強くなるということになる。それに対して、私は時に反抗することもあった。たとえばお味噌を買いに行きなさいと言われると私はいやだなあとまず言う。味噌が切れていることは前の晩にわかっていたはずなのに、昨夜のうちに買わせにやってくれればよかった。朝の六時などにたたき起こさないで。するといきなり、生意気を言うんじゃありませんと血相変えて母がにらむ。私はとたんにうれしくなり、ゲラゲラ笑いながら酒屋に飛んでいく。母は舌打ちして、強情っ張りな子と言いながら苦笑する。そんなことのくりかえしであった。
そのころはまた、神社にもよく行っている。いまも幾つかその名残りがあるけれど、徳川時代、江戸の町には富士講といって、富士信仰がさかんであった。子どもが自分で教科を選び自発的

子どもをダメにすることが意外に多いのです
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母親であるということは先ず

上富士前のお富士さん、護国寺、それから椎名町の神社には、ミニ富士山があった。それらの場所にも一人で行って、1合目から頂上まで、せいぜい一五メートルそこそこの石の山道を辿る。山腹をまいてきちんと石が組まれ、子供ごころに登山気分が味わえておもしろかった。
とにかく友達を誘わなければ、そのひとが行かないときはどうしようなどと気を遣うこ
ともない。
私は一人を淋しいというよりは、楽しいといつも思うようになっていた。
駅と駅の間もよく歩いた。

いじめ続けてい

小学校のある池袋を中心に、池袋-大塚、大塚-巣鴨と歩く巣鴨から自分の町の板橋までも歩いた。距離にしていずれも三、四キロ。歩くのに手ごろで、土曜日など、学校の帰りに家まで真っすぐ帰ってきたことはない。土曜日の午後はたっぷりと歩いたり、図書館に行ったりで土曜日が待たれた。
いろいろなところを歩いてみると、ある家の庭の花のつぼみが、次の週に行ってみるときれいに咲いていたりする。そのころ、ブロック塀などはなくて、ほとんどが生け垣だったから、木や草の花が、次々に咲くのが外からも見られる。それが楽しかった。植木屋や花屋の店先に立ちどまって、あの木この木、あの花この花と見ていると、見あきることが小学校三年のときには、肋膜を患って一夏寝た。

子供も出てきます。

父は結核で死んだので、多分、私も呼吸器が弱かったのであろう。病気になると、ふだん、小言ばかり言っていた母が急にやさしくなってくれ、これもうれしかった。心配そうにのぞき込んでいる母の顔を見ると、熱が下がるのが残念で、もうちょっと上がっていてくれればいいのにと思ったりもした。
そのころの悲しい思い出は、私は猫が大好きだったのに、母と姉が猫がきらいで、家で飼えなかったことである。たとえ飼っても、私が学校に行っている間、猫の面倒をみるのは母である。母は、猫は泥足で、家の中に入ってくるから汚いと言い、どうしても飼ってもらえなかったある日、かわいい捨て猫を拾って来たら、すぐ叱られて家に入れてくれない。弟と一緒に、池袋まで歩いて猫を捨てに行ったが、その悲しいことといったらなかった。泣き泣き歩き、泣き泣き帰ってきた。

高校野球の監督が選手をクタクタになるまでしごい
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母親の仕事というようにほぼ固定化していますね。

その夜、まんじりともしないふとんの中で、早く大人になりたい、自分の家で猫が飼えるようになりたい、心からそう思った。
それにしてもあれだけ一人で行動していて、よく、痴漢にあわなかったものと思い、それだけ世情が安定していたのかと思っている。また、そのころのお寺はどこでも、門のところに花を売るおじさん、おばさんなどがいて、私が門を通るとよく、どこの子?と、聞かれたりしたその頃は見馴れない子供が町をひとり歩きしていると、大人が必ずといっていいくらい、どこの子?とかどこから来たの?とか聞いたものである。自分の町の名や家の名を答えると、大人も安心したらしい。いつまでもこんなところに一人でいるんじゃないよ
と、注意してくれたりもした。昔の人情の厚さのせいであろうか、地域社会で子供をまもろうとする風潮がさかんであったのかもしれない。
私の実家は大きかったが、通りをへだてたところに、いまでいう長屋があった。一つの大きな屋根の下に、小さな住居が何軒もできているのを長屋と言ったのだが、私の町には大きな造兵廠があったので、地方から工員がいっぱい集まり、そうした小住宅に住んでいたのであろう。


子どもが自分で教科を選び自発的 子どもは今 母さんの実感でしょう。